薬祖神祭について

 
 毎年10月、長崎県薬事協議会は、「薬祖神祭」を松の森神社(長崎市上西山町)で行っています。
 松の森神社には「神農像」が祀ってあります。また、長崎県薬事協議会において「少彦名命」を作成し、平成7年の薬祖神祭で御霊移式を行いました。(写真1)
 薬祖神祭では、この2神体をお祀りしています。祭典では松の森神社の宮司より修祓と祝詞が行われ、次に各会代表者による玉串奉奠が行われています。
 長崎県薬事協議会は、長崎県薬剤師会、長崎県登録販売者協会、長崎県製薬協同組合、長崎県医薬品配置協会、長崎県製薬協会、長崎県福祉保健部薬務行政室より構成されています。
 
(写真1)松の森神社に奉祀されている神農さん(左)と県薬剤師会にある少彦名命(右)
神農さん
少彦名命
 
 以下は薬祖神祭に出席された長崎市の西脇金一郎先生より寄稿していただいたものです。
長崎の御薬園と神農祠の由来記
 長崎における薬園の変遷は末次平蔵の管理以来おおよそ下記の通りである。
 
 1.十善寺郷十善寺跡 元和2年(1616)〜延宝8年(1680) 64年間
  十善寺(現館内町)は年代不明であるが、長崎氏がこの地を領有していた頃、同家代々の祈祷所として創建した所で、天台宗一沙門がここに住し、十禅師八王子を祀っていたので十善寺の名がある。
 天正元年(1573)、長崎氏没落後、切支丹により寺は焼却され、此処に会堂が建てられ、所謂、切支丹十一ヶ寺の1つであったと言われている。
 慶長19年(1614)、徳川家康のキリシタン禁制により幕府は長崎のキリシタン会堂を悉く破却させた。
 従って茫々たる雑草の中に荒廃したまま打ち捨てられていたが、海外貿易によって巨万の財宝を積み、渡海禁止後も密貿易を営んだと言う長崎代官・末次平蔵が元和2年(1616)、耶蘇会で作っていた十善寺の薬園を管理するところとなり、ここに海外より舶来した薬草木などを栽培した。
 これが長崎における薬園の始めという。
 
 2.十善寺郷現館内町 面積8,766坪 延宝8年(1680)〜元禄元年(1688) 9年間
  延宝4年(1676)、末次氏4代目没落後は町年寄たちが支配していたが、延宝8年(1680)、25代長崎奉行・川口攝津守によって官に没収され、再び薬園は復興された。
 末次氏開拓の十善寺跡に、更に付近を加え、面積8776坪を有するに至る。
 然して唐船にて持ち来たりし種々の薬草木を植付け、代々幕府の直轄の御薬園とした。
 長崎は当時、その位置が我が国の西南に位し、気候温暖で亜熱帯植物の生育に適していた為、中国、阿蘭陀の船にて持ち込まれた薬種苗は一旦、
長崎薬園において栽培したものを日本各地の薬園に移植するに至ったのである。
 このように長崎は江戸時代、外来文化の中継地点であったばかりでなく、外来薬種苗の中継地点でもあったのである。
 
 3.立山奉行所内 元禄元年(1688)〜享保5年(1720) 33年間
  元禄元年に町宿の唐人を小島村十善寺の地に唐館を建てて移住させ、十善寺にあった薬草木は残らず立山お役所内に移植された。
 
 4.十善寺郷十人町 面積1,180坪 享保5年(1720)〜文化7年(1810) 90年間
 享保4年(1719)、天神山(現在の活水大の裏山手)の天満宮祠は本籠町街上の大徳寺境内に移建し、神仏合祀をされたのを機会に、その翌年の享保5年(1720)、天満宮祠の跡地と天神山にあった小島郷の天草代官所空き地を開墾し、立山お役所内にあった薬草木を残らず移転し、植え付けたのである。
 この間、延享4年(1747)、薬種目利、森田才右ヱ門は天神社の跡に神農祠を造り、神農さんを祭祀し、石経(石燈)一対を奉納して守護神としたとの記録がある。又、この神農さんの像の裏には「奉造立 荒木繁右ヱ門克一」と明かに日本人の作者名が彫ってあり、神農さんが中国伝来のものと言う説は誤りである事が分かる。
 (祠は「ホコラ」とも読み、鳥居のない小さな社殿のこと)
 
 5.西山郷松の森神社裏手 面積1,218坪 文化7年(1810)〜明治3年(1870)60年間
 文化7年、西山郷松森神社地続きの土地へ移る。それは陰地を好む薬草は日影少なく、夕日の強い十善寺にては不適当であり、西を塞ぎ、東南に向かい、朝日を受け、八つ過ぎ(午後2時過ぎ)から影になり、甚だ薬草の生育に西山郷は適当なりと言う薬種目利頭取、中島真兵衛の申立てを採用したためであると言う。
 文化8年、十人町薬園に奉祀していた神農祠の石祠を新しく造り、ご神体を遷宮して、ここ西山薬園内に奉祀した。
 爾来、神農祠は薬園廃止となるまで、123年間連綿として続いた。

 而して60年間、西山薬園の守護神としてあがめられて来たが、明治御維新になって幕府倒廃と共に長崎県の所有となり、明治3・4年の頃、土地、薬草を併せて入札に附し、売却せられた。
 これより先、薬園廃止となった時、いち早く神農の像を薬種目利 中尾寿一が自宅に保管して来た。
 そして大正7・8年の頃、ご神体に修飾を加え、松の森神社にご依頼して保管されていたものを、この度、薬史会で発見したのである。
 以上の経過は長崎市史によって確認できた次第である。
 
日本の薬祖神・少彦名命について
  今から106年前、薬祖神を祀る祠堂は明治2年4月、長崎大学の前身「長崎府医学校」の学生が寄進して同校の境内に奉祠したものである。
 その後、幾多の変遷を経て、大正12年4月、長崎医科大学の開校と薬学専門部校舎改築にあたり、前庭に遷座され、祠堂寄進60周年にあたる昭和4年1月12日、第1回の祭典を挙げて、少彦名命の御神霊を祀り、爾来毎年、薬学部において恒例として新年の劈頭にその祭典を執行していたが、原爆落下時、祠は校舎もろとも地下に埋没したまま現在まで不明である。

  (資料提供:西脇 進 1999.11.20)
(写真2)幕末のころの伊良林
 
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