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東日本大震災における薬剤師ボランティア活動報告

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報告者 : 中川 勝憲

災害派遣ボランティア報告書

第11班

活動期間: 平成23年4月27日~4月30日
活動場所: 南三陸町ベイサイドアリーナ仮設診療所横薬剤師会本部および志津川病院診療所

 

活動内容:

4月27日晴れ 気温21℃
   午前6時に東京を出発し、東北自動車道を北上、仙台宮城JCを降りて11時半に宮城県薬剤師会に到着。
 第10班との引き継ぎ、現地へのルートなどの説明を受け、宮城県薬剤師会のジャンパーをもらって12時過ぎに南三陸町へ向かった。水やOTC薬など、必要なものはここでもらうことができた。
 東北自動車道および仙台北部道路、三陸自動車道を経て、午後3時ごろ南三陸町へ入る。海側の道は通ることができず、新しい道もあるためカーナビは役に立たなかった。泉SAが最後のサービスエリアであり、休憩や給油などはそれまでに行うべきである。被災した南三陸町役場および志津川病院の横を通り、山側からベイサイドアリーナへ入る。

 ベイサイドアリーナでは、前々日入りした近畿チームから簡単な説明を受け、施設内を案内してもらった。
 ベイサイドアリーナ入口右側のスポーツジムがT-MAT(徳洲会)と宮城県薬剤師会本部となっており、各医療団への払い出しやT-MAT受診患者の調剤、志津川病院診療所への支援を行っていた。
 物資は飲み水からおむつ、医薬品、消毒薬、OTC薬や食料に至るまでかなりの数がそろっており、ボランティアスタッフはなんら用意する必要はなかった。私も大量の水と医薬品を持ち込んだが、物資は過剰な状態であると思われた。巷では品薄となっているチラーヂンや大健中湯など十分にそろっているようであった。一部の注射剤や向精神薬、麻薬などがなかった。
 発注はその日の5時までに卸のバイタルネットへ電話で注文を行えば、翌日の昼ごろ届けられた。各医療チームからの要請で在庫がないものや、在庫が少なくなった医薬品を卸に発注していた。

 その後志津川病院診療所へ向かい、薬剤部長の小室先生にお会いし、早速作業を開始した。
 志津川病院診療所の薬局では、常勤3名と日病薬の応援薬剤師、日薬のボランティア薬剤師が作業を担当していた。
 この日は薬品棚の搬入が行われており、医薬品を整理しながら、消灯時間の9時前まで医薬品棚の設置を行った。

 食事は避難所で人数分用意され、持ち込んだ食料はほとんど食べなかった。
 日中は暑く、Tシャツの上に上着を着るだけであったが、日が暮れると極端に気温が下がり、上着の下にトレーナーが必要になった。
 夜はT-MATの控室と医療本部の控室を間借りして休んだ。ウレタンマットが敷かれており、枕が必要なだけで、普通の寝袋であれば問題ない気温であった。9時に消灯、近畿チームが夜間の対応をするとのことで、ゆっくり寝ることができた。
 

4月28日 雨

   5時に起床し、8時に志津川病院診療所へ向かい、調剤業務を行った。
 医師の処方箋はすべて手書きであり、先発医薬品で書かれることもあれば、ジェネリック医薬品で書かれることもあり、どんな在庫があるのか確認しながらの調剤となった。志津川病院の採用医薬品を中心に整理しているため、ジェネリック医薬品の名前から在庫する医薬品を探し出すのに手間取った。また、薬袋とお手帳は手書きであり、先発はあるか、ジェネリックは何があるか確認しながらの作業となった。無いものは、薬剤師の判断で後発品や規格違い、剤形違いの医薬品へ変更する事が出来た。作業は薬袋とお薬手帳を書く係、ピッキングと監査・投薬の係に分かれて作業した。薬歴は書かず、簡単なモニタリングと薬の確認、説明、副作用発生時の対応などの説明のみ行った。
 昼休みは交代で食事をとることにしたが、患者がひっきりなしに来て、往診の患者71名分の調剤もあったため、ほとんど休めなかった。外来は内科を中心に93名であった。途中、テレビの取材などの混乱があり、処方箋がなくなるというトラブルがあった。
 薬局内に冷暖房設備はなく、これから先の季節は厳しい環境になると思われた。
 志津川病院診療所との医薬品の授受は、電話での在庫確認後に走って往復して運び、特に記録は残していなかった。
 志津川病院診療所では軟膏の混合ができないため、ベイサイドの薬剤師会本部で混練して運んだ。
 志津川病院診療所と薬剤師会本部のいずれも医薬品が充実していたが、過剰なものと不足するものがあり、バランスが悪いと感じた。特に、薬剤師会本部は今後縮小、撤退の予定であるため、先発で未開封のものは返品する予定であるとのことであった。
 

4月28日 雨

   5時に起床し、8時に志津川病院診療所へ向かい、調剤業務を行った。
医師の処方箋はすべて手書きであり、先発医薬品で書かれることもあれば、ジェネリック医薬品で書かれることもあり、どんな在庫があるのか確認しながらの調剤となった。志津川病院の採用医薬品を中心に整理しているため、ジェネリック医薬品の名前から在庫する医薬品を探し出すのに手間取った。また、薬袋とお手帳は手書きであり、先発はあるか、ジェネリックは何があるか確認しながらの作業となった。無いものは、薬剤師の判断で後発品や規格違い、剤形違いの医薬品へ変更する事が出来た。作業は薬袋とお薬手帳を書く係、ピッキングと監査・投薬の係に分かれて作業した。薬歴は書かず、簡単なモニタリングと薬の確認、説明、副作用発生時の対応などの説明のみ行った。
昼休みは交代で食事をとることにしたが、患者がひっきりなしに来て、往診の患者71名分の調剤もあったため、ほとんど休めなかった。外来は内科を中心に93名であった。途中、テレビの取材などの混乱があり、処方箋がなくなるというトラブルがあった。
薬局内に冷暖房設備はなく、これから先の季節は厳しい環境になると思われた。
志津川病院診療所との医薬品の授受は、電話での在庫確認後に走って往復して運び、特に記録は残していなかった。
志津川病院診療所では軟膏の混合ができないため、ベイサイドの薬剤師会本部で混練して運んだ。
志津川病院診療所と薬剤師会本部のいずれも医薬品が充実していたが、過剰なものと不足するものがあり、バランスが悪いと感じた。特に、薬剤師会本部は今後縮小、撤退の予定であるため、先発で未開封のものは返品する予定であるとのことであった。
 

4月29日 晴れ

 

 志津川病院診療所が休診のため、全員ベイサイドアリーナの勤務となる。
 8名全員では人数が多すぎるため、3名は宮城県薬剤師会に物品の調達に向かう。
 この施設(ベイサイドアリーナ)と今後の支援体制に関する情報が全く入ってこない。基本的に情報は求めなければ与えられない環境であり、すぐ横にある医療本部(自治医科大医師と志津川病院医師)に相談や問い合わせを行うべきである。可能であれば、毎日の医療団のミーティングに参加するべきであると感じた。
 午前中、数名の患者が受診したが、忙しくはなかった。各医療団も撤収しているところがあり、払い出しの数も少ない。経口補液OS-!の需要が高まり、宮城県薬剤師会に取りに向かったが、直後に引き上げる診療所からの受け取りを依頼され、無駄な時間を過ごした。
 気仙沼から帰る途中に宮城県薬剤師会の方が寄られた。「何か足りないものはないですか?」の問いに、「紙コップと情報が足りない。」と回答する。
 T-MATの松林医師と情報交換する。T-MATは2日に撤収し、その後は他の医師団が入って診療を行うとのこと。ベイサイドアリーナの薬局も14日をめどに撤収する予定。
 今後は、志津川病院を中心とした地元の医療システムが自立して機能するためにも、早期の引き継ぎが求められるが、仮設診療所の設備と人員はともに不足している。志津川病院側と医師団の協議が、どこまで進んでいるのか全く情報が入らず、引き継ぎもできていない状態である。宮城県薬剤師会も全く情報を把握しておらず、医療本部との情報の共有化が必要である。

 

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